エリート教育のダークサイドについて語ろう

自分の勉強やらその他のことやらで忙しくて、学院長が出てくる場面がなくてすみません。今日は、少し書いてみたいことがあるので、学院長を呼んでいます。ではどうぞ…。

学院長です。お久しぶりです。

実は、子どもの通っている学校の教育方針に頭を抱えています。わかる人にはわかる某高校なので突っ込まないでほしいのですが、その学校では、「一日の中の文武両道」というのが、生徒や保護者に対する校長の口癖になっています。

要するに、勉強も部活や行事もどちらも全力でやれ(または、少なくともそれを目指そう)、という指導が日々されています。この言葉は公開されている「学校経営報告」という文書にも出ていますので、まさに学校の公式な教育方針ということだと思います。

しかし、実際に子どもを通わせてみて思うことは、これはエリート教育の名を借りた「ブラック企業の歯車養成ギブス」なのではないかと感じます。具体的に言えば官僚のタコ部屋とか、そういうところに耐える人材を育成しているように思うのですが、さすがにそんなことを学校が言うはずはありません。

タコ部屋 (日本の官僚) – Wikipedia

いわゆるトップ校と言われるところですから、能力が有り余っている優秀な生徒が一定割合でいます。勉強も部活も完璧にこなし、体力があって居眠りはせず、行事となればリーダーとなってクラスを引っ張り、そして行事が終われば次回の行事の準備を速やかに開始する。

場合によっては、その子の親がデータ整理をして「戦略立案」に協力するようなケースもあり(例えば、文化祭の出し物の演劇の結果アンケートを親が分析して子に渡すなど)、エリートからエリート予備軍への、家族ぐるみでの「理想とされる教育」が、自分の手の届くすぐそばには存在しています。

しかし、3人の子どもの教育に深くコミットして、いろいろな経験をした自分には、こうしたこの学校の目指す教育は、うっとうしい思い違いにしか見えません。

誰もがみんな、そうした教育方針に乗っかって生活できる器用な生徒ばかりではありません。学校を辞めていく生徒もいます。人の気持ちがわからないエリート候補のリーダーに対して、立場を理解して同調しながらも賛同できずに心を痛めてしまうような、感受性の高い生徒もいます。そのリーダー格の生徒をdisっているわけではありません。人生経験が浅いのですから、「能力が余っている人」が、「できない他人」の気持ちがわからないのは当然です。

頭を抱えるのは、学校側がこうした方針を明確に打ち出しながら、各種行事においては「生徒の自主性を育てたい」という理由で、全面的に行事の運営を生徒に任せている点です。

こうして、能力を思うがままに発揮できるリーダー層(実に楽しいと思いますし、そこを学校は成果として喧伝します)と、それに付いていく多くの一般層、さらに、感性が合わずにノレない層、そして脱落する層、といった分断が必然的に起きます。しかし基本的には優等生の集まりですから、表面上はそれなりにまとまってもろもろが進行していきます。

こんな中で傷ついてしまう生徒の心の行き場は、こうした学校の教育方針の中には、一切ないのです。これだけ多様性への理解が問われる時代にあって、恐るべきモノリシックな教育が意図的に行われていることに慄然とします。

そしてそれは、本分である学業についても同じです。

実は今日、保護者会があって、学院長もその会に参加しました。2021年度から行われる新しい大学入試制度について、いろいろと説明がありました。英語担当の教師は、英検の受験級やスコアがCEFRのスコア(新制度において採用される国際指標)にどのように変換されるかという非常にテクニカルな話を、インサイダーからの情報だと言ってうれしそうに事細かに話していました。

学院長は教育オタクですから、その話は興味深く聞きましたし、とても参考になりました。しかし、それは親が知るべきことでしょうか。

親は「よくわからないけど、あんたのことを信じているよ」と対応すれば、大学受験を控えた子どもには十分です。今ごろ、そのインサイダー知識を得て喜んだ親御さんが多数、喜々としてその話を子どもに説明したりしているかと思うと、それは喜劇のような悲劇のような、自分はちょっと塞いだような気持ちになります。

そんな話は、子ども自身が自分で調べて、必要だと思ったら自分で使えばいい、些末なテクニックに過ぎません。親がその知識を使って子どもに何かをするとしたら、それは子どもにとってのストレスの種にしかならないでしょう。

モノリシックな教育に家庭を巻き込まないでくれ。少なくとも第一子だったらそれが普通だと思ってしまうよ。

そんなこともわからないこの学校の教育方針は、上下がさかさまになっているくらいに時代の要請からずれていると、学院長は思います。

ブラック養成ギブスをはめているのかと、再度自問自答してわかりました。公立学校のトップ校が元来果たしてきた社会的役割を現代化して、本来の自主自律の校風とミックスすると、結果的にこのようなことになるのかも知れませんね。

ところで、学院長が好きな教材に、東京出版の「秘伝の算数」という本があります。これを書いたのは啓明舎という塾を作った後藤卓也という教師ですが、啓明舎がまだ独立資本だった頃、学院長はその塾の受験結果を振り返る年次報告会に出たことがあります。

塾長である後藤卓也は、とある女子校の大学進学実績を紹介して、その中にいる、製菓学校へ進学した生徒の話を紹介しました。そして彼は感極まって涙を流したのです。

それは、進学先を自ら選び取ったその生徒への思いと、そうしたことを一般にはよしとしない風潮、そして立場上よしとできない自らの受験請負人としての立場とがないまぜとなって、自然に溢れたものではなかったでしょうか。そのシーンは、教育者らしい、とても良心に満ちたものであったと、自分の心に深く刻みこまれています。

それに比べると、学校説明会で上位大学10校への進学実績を成果だと語る人を、自分は教育者らしいとは思いません。大学合格実績はその高校の実績としてのゴールかもしれませんが、生徒にとってはただの通過点です。しかしそれは学校空間では、明らかなゴールとして認識されている。そこを履き違えている限り、勉強をしない大学生が一向に減るわけはないじゃないですか。

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