身の丈と成果主義と参考書

Hey guys! 学院長です。

この数日、自分のまわりが教育ネタで少々かまびすしいことになっているので、学院長ファン(そんな人が世の中には5人くらいいるよね?)のために、その状況について書いてみるよ。

まずは萩生田光一・文部科学大臣の「身の丈」発言について。これを聞いて学院長は、本質を突いた発言ではあるけれど、教育行政のトップが「それを言っちゃぁおしまいよ」と感じました。

(参考)萩生田文科相の「身の丈」発言、形だけの謝罪・撤回だけで終わらせず大学入試改革の本質的な問題点追及を | ハーバー・ビジネス・オンライン

以下、関連の話題を交えて話します。

松岡亮二さんという方が著した「教育格差」という書籍があります。この本によれば、日本は世界的にも特異な、高校段階で学力格差を拡大・固定化する仕組みを持った社会なのだそうです。

教育格差 (ちくま新書)

朝日新聞の書評から引用します。

著者は前口上で、日本は生まれ育った家庭と地域によって、何者にでもなれる可能性が制限されている「緩やかな身分社会」だと指摘する。最初に、戦後いつの時代にも教育格差があったことを示し、次に教育格差が生成するメカニズムを幼児教育、小学校、中学校、高校と各教育段階ごとに解明していく。公立小学校は平等化装置として機能することが期待されているが(誰もが同じスタートラインに立つ)、「生まれ」によるそれまでの格差をゼロにするほどの力はなく、むしろ学年が上がるにつれ格差は拡大する傾向にある。中学校になると、都市部では高学力層が私立に抜けるため公立校の学力は小学校より均質化(平均が低下)する。日本の高校は特異で偏差値序列によって高校間に大きな学力格差が生じている。国際比較を行うと、日本は公平性が高いわけでも低いわけでもない、とても凡庸な教育格差社会だ。

「教育格差」書評 数字で示す「緩やかな身分社会」|好書好日

この点について、ブロガーで国語教師のあすこま氏は同書を踏まえて、次のようにまとめています。

義務教育までは「平等」(ゆえに格差を縮めもしない)を装っていたのに、高校からはその格差が露わになる。しかも、入学試験という儀式を経ることで、「生まれの差」によって生じた格差が「努力の差、能力の差」に読み替えられる。(中略)総じて、学校(小学校・中学校・高校)は格差の縮小・平等化機能は持っておらず、家庭(経済力、家庭週間)や地域(どんな人が地域にいるか、どんな風に過ごすのが「普通」か)によって、子どもの将来は緩やかに決まってしまう。それが、ずっと前から続き、今さらに強まりつつあるのが、現代の日本社会です。

[読書]自分の「正しさ」に酔わないために。松岡亮二「教育格差」 | あすこまっ!

この問題は、自分で3人の子育てをして、特にいま高校生の親をやっていることで痛感していることなのですが、「トップ校というものは身分・階級を”固定化”する装置」だ、という問題意識とイコールです。そして、教員もそれを意識して、意図的な「エリート教育」を行っているように感じます。

萩生田大臣の「身の丈」発言は、このように既に行政の本音、そして、学術研究の成果としてもわかっていたことを、率直に述べたに過ぎません。しかし、それを言ってはおしまい、なのです。

生まれ持った環境によって子どもの将来がおおむね決まるとしたら。そしてそれが高校で「固定」されるとしたら。そのように考えると、中学受験や高校受験に対する昨今の親の熱狂も理解できます。そしてその上に乗っかって利益を上げる塾産業というシステムや、またそれに対して無批判に子どもを「投じて」しまう無邪気な親の姿。

学院長はそうしたすべてに対して、長年に渡ってうっとうしいと感じ、ささやかな抵抗を試みてきたと言ってもいいかもしれません。以下にその区切りごとにまとめたエッセイがあります。よかったら読んでみてください。

中学受験戦記2010
中学受験戦記2013
中学受験戦記2015
高校受験戦記2018

次に、話を成果主義のことに進めます。それは、萩生田発言を受けて新しい入試システムの導入延長について問われて「大いに迷惑、ふざけるな」と発言した、とある高校の校長についてです。学院長は縁あって、この人と、一般の方々よりも近くで接する立場にあります。

(参考)「大いに迷惑、ふざけるな」のサイト内検索結果:朝日新聞デジタル

「ふざけるな」とは、萩生田発言よりももっと率直です。世間にどう思われるかということをまったく考えずに、自分のミッションである「東大の合格実績を延ばす」ことにひたすら邁進するその姿は、教育者というよりも出世欲が前面に出たビジネスマンのようで、すがすがしく見えます。

以下に、この人の行っている教育について書いたエッセイがあるので、よかったら併せて読んでみてください。教育現場が成果至上主義になってはいけないと思います。前に書いた話とこの話は一筋につながっています。

エリート教育のダークサイドについて語ろう – tapestry

案の定、この人の発言はTwitter上でプチ炎上しはじめてしまったようです。子どもからも直接、その話題を聞きました。生徒は冷静で、成果主義者とそうではない教育者とを区別して対応しているようです。

最後に参考書、というものについてです。

学院長は一時期、中学受験の参考書の収集(蒐集)に入れあげていました。多くはもう捨ててしまいましたが、まだ半分くらいは手元に残しています。また、大学受験の英語教材もたくさん集めました。

自分がなぜ参考書というものに魅力を感じるのか。それは、参考書というものが、ここで書いている「学力の固定化」「身分の固定化」というものに抗える、持たざるものの武器であるからです。いまここで書いている語彙を使えば、参考書とは「身の丈を超えるための武器」なのです。

参考書なんて、大して儲かりもしないビジネスです。でも、そこに心血を注いで、細かな工夫を重ね、先達の成果をわずかでも越えようと努力してできあがった書籍の数々。学院長はそこに大いなるシンパシーを感じます。それに、成果主義者は参考書なんて作らないし、作る能力も、その動機もないのです。

その高校においても、3年生の通塾率は実に8割にもなります。すでに持つべきものを持っている集団が、さらに資本力を活かして武装している。もう本当にうっとうしい。

もう高校生なのだから、自分の力で、書物の力で、自分で道を切り拓いて行ってほしい。そしてそれがどんな結果になろうとも、その過程こそが大事なのであって、それを全面的に親として受け入れたい。

父親でもある学院長は、そんな風にこの「身の丈」問題を見ています。

4 Comments

  1. swakaさん、サッカー小僧さん、コメントありがとうございました。

    結局延期となって、報道などでも大きく取り上げられましたね。この記事はその前々日の夜に書いたので、そのタイミングでしか書けなかったという感じです。延期の後だったら、やれやれ、という感じで書く気にならない(^_^;)

    ちょっと気になることもあるので、フォローのエントリを1つ書こうかな。

  2. サッカー小僧

    我が家の息子も6年生になり小学校生活も残り5ヶ月を切りました。
    僕の住む地域では中学受験を受ける子供はほぼいないので、すでに地域格差を感じています。
    「自分の力で、書物の力で、自分で道を切り拓いて行ってほしい。そしてそれがどんな結果になろうとも、その過程こそが大事なのであって、それを全面的に親として受け入れたい」
    息子にもそうなってほしいと強く願い、僕も全面的に受け入れたいです。

  3. swaka

    英語民間試験導入が延期されて残念ですね。できるだけ一般化、共通化して義務教育等で英語にかける時間を他に回してほしいです。古色蒼然とした試験英語とかもうどうでもよいので、ITを活用した英語教育にシフトしてほしい(まあ難しいとはお思いますが)。

    特にここ最近の自動翻訳の進化には驚くものがありますよね。英語のニュースを読むのが本当に楽になりました。とても自然。あと2〜3年で自動同時通訳もものになるらしいですし。そうなってくると英語教育って意味があるのかってことにますますなりますよね。子供たちにどこまで英語を勉強させるべきか悩ましいです。できればそのリソースを自然科学方面や人文・芸術方面に割いてほしい。

  4. タイトルを当初公開時から変更し、文章もそれに併せて少々改変しました。

    当初、英語のfuckin’にあたる言葉を、veryやsoと同じように強調語として使っていましたが(例:超、すごい)、日本語だと排せつ物と取られる可能性があり、誤解を防ぐために変更しました。

    文意や主張に変更はありません。

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