皆さまは裁判所に行ったことがありますか? 僕はつい最近、人生ではじめて裁判所の中に足を踏み入れました。それは死んだ父の遺言書を、家庭裁判所で「検認」してもらう必要があったからです。
父が死んでいろいろな法要を終え、遺族で遺産分割の協議を終えた師走のある日、実家の内装を取り壊そうというその直前になってから、遺言書は発見されたのでした。
遺言書には、遺産分割の具体的な指示に続いて、家族への感謝や先に死んだ母への愛情が綴られ(遺言書は母の生前に書かれていた)、いかに自分が幸せな人生であったかが、いきいきとした筆致で綴られていました。
遺言書を読んで、父らしいなと思う一方で、このトーンはどこかで読んだことがあるものだな、という思いがずっと残っていました。
それが今日わかったのでご紹介します。
2016年に亡くなった大橋巨泉さんの著作に、「どうせ生きるなら」という2006年に角川書店から新書として発売された本があります。巨泉さんが72歳のときの著作です。
どうせ生きるなら (角川oneテーマ21) | 大橋 巨泉 | Amazon
この本は、2000年の「巨泉―人生の選択」に対するアンサーソングとして書かれた書籍で、セミリタイア後の失敗談がリアルに描かれていて、僕はむしろ「人生の選択」よりもこちらの本が好きで、よく手にしています。
その「どうせ生きるなら」の最終章に、書名と同じ見出しが付いた一節があります。僕が父の遺言書を読んで覚えた既視感は、本の締めくくりで巨泉さんが綴った寿々子夫人への愛情表現から来たものだと、気づいたのでした。
では今日、どうして「どうせ生きるなら」を再び手に取ったのか、その理由について書きます。
今朝、畏友funasan(舟橋栄二さん)からメールをいただき、半年に渡って取り組んでおられた自著の英語版を、ついにAmazon Kindleストアでリリースされたことを知りました。
Amazonのサイトを訪れると、Travel部門のTravel and Tipsというジャンルでは2位に入っていました(Lonely Planetと並んでいるところがすごい)。
そのことを知って、再びデジャヴュを覚えた僕は、出先から自宅に戻ってすぐ、書棚から巨泉さんの本を手に取ったのです。
上述の終章にある「どうせ生きるなら」と題された文章から引用します。
若い時代は、まず「稼ぐ」ことが、優先順位のトップに来ざるを得ない。しかしある時点から財政計画を立てて、定年後に備えておけば、今度は「稼ぐため」でなく、それこそ「自分を表現するため」だけに仕事が出来る。それが若さを保ち、より良いリタイア生活をつくり上げる原動力になるのだ。「どうせ生きるなら」、ただ呼吸しているだけでなく、目的をもって生きたい。そしてその目的が生活のため、「稼ぐため」でなく、自らの表現だとしたら、こんな素敵なことはないと思う。
細かなニュアンスに違いはありますが、このパッセージはまるでfunasanのことを表現しているように、僕には思えました。
自らを表現するために旅し、そしてその体験を作品として世に問うて社会とつながることで、また自分を表現する。その繰り返しが生きるよろこびだとしたら、素敵なことですね。
僕もブロガーとして、そんな心持ちで、日々、頑張ってみたいと思っています。
resortboy さん、私の英語本の紹介と意味深いコメント有難うございました。
私は若い時から旅が好きで、早く退職して遊びたい(自由に旅したい)、と思っていました。今、振り返ってみると、FIRE(Financial Independence,Retire Early)を実現して、自己実現にまい進したようです。旅行記等をフォートラベル、ホームページ、そして書籍という形で残したことも大きいですね。確実に社会とつながっています。
ともあれ、こういう場で私の本の紹介と70歳になったお爺さんトラベルライターを評価して下さるresortboyさんに感謝感謝です。