紀州鉄道、北軽井沢の夢のあとさき

「会員制ホテル今昔物語」は、35年に渡ってリゾート会員権についてウォッチされているzukisansuさんによる連載です。日本で独自の発展を遂げたリゾート会員権、すなわち「ガラ権」の歴史をたどることで、日本的文化とは何か、日本人とは何かを、過去に学び未来を見通す―そんな奥行きのある連載として、僕から特別にお願いし、zukisansuさんにしか語れないこのテーマでご執筆いただく運びとなりました。どうぞご期待ください。(企画・制作:resortboy)

浅間高原、北軽井沢、軽井沢高原…。あれこれと違う呼び名が付けられた、この長野原町と嬬恋村に広がる別荘乱開発エリアを巡る旅も、いよいよ佳境。最後の大物として、日本のリゾート会員権(ガラ権)を開花させたと言えるパイオニア、紀州鉄道の本拠地を訪問します。

本シリーズ、堂々の大トリを勤めるスターホテルは「紀州鉄道 軽井沢ホテル列車村本館」1(現 ゆとりろガーデン北軽井沢with DOGS)です。さらに本ホテルに隣接するコテージ群や、それらが所在する別荘分譲地など、数々の今昔を追ってみたいと思います。

この列車村本館をセンターに、周りを取り巻く連中がぞろぞろと「パルコール村」の舞台で歌い踊る様は、AKB48ならぬ、KTB48(K=紀州 T=鉄道 B=分譲)といって良いほどの多彩な顔ぶれ。1980年代の最盛期には、コンクリート造りのホテルから、戸建てまたは集合住宅のコテージ、寝台列車まで、あらゆるニーズに応える宿泊施設を取りそろえていました。

別荘所有者やガラ権会員は、ライフスタイルに合わせてそれらを選びながら楽しんで使えるという、ささやかながら夢の世界でした。

再訪で知る寒冷地50年の傷み

前回のプリンスランドを出発した筆者は、いよいよ勇んで大トリを目指します。せっかくですのでわざと遠回りのルートを取りましたが、乱開発エリア自体はさほど広くありませんのですぐに到着しました。

順調に到着した紀州鉄道 軽井沢ホテル周辺は現在、このエリアで最も道路が荒れています。幅員が狭い上にコンクリートが破損し、一部ダートかと思えるようなデコボコ道となっていました。

紀州鉄道の開発した多くの別荘地は、現在も開発時と同様に紀州鉄道によって管理されています。しかし全体が広いのと、資金が不足していることの両方だと思いますが、きちんと管理できている状況にはありません。

今は他社のものとなったセンターとなる旧列車村ホテルや別館・コテージ群の周辺さえ、車高の低い車だと底を打つ可能性があるほどです。実際にこのホテルやコテージを利用されるのであれば、そのことを念頭に、慎重に計画を立ててください。

磐梯高原から

紀州鉄道については、すでに本連載でルーツとなる磐梯の「沼尻」を紹介し、その源流をたどっています 2。そこでお読みいただいた通り、当時から紀州鉄道は、鉄道業を主な目的とした会社ではなく、複雑な流れで別荘地やガラ権を開発・分譲し、その運営元となったのでした。

磐梯高原における鉄道業は1969年に廃線となり、現地での別荘地販売やガラ権ホテル(沼尻国際リゾートホテル=裏磐梯オーナーズビラ、1974年竣工)の建設・販売を目論んでいましたが、同社の販売ターゲットとなる顧客層は東京の住人だったわけで、磐梯高原での拡張には無理がありました。

旧磐梯電鉄は1966年に不動産業に進出し、その後のガラ権進出の時代に社長を努めたのが柏茂美氏でした。東京上野で不動産業を手がけていた柏氏は、ガラ権産業史上の知られざる重要人物です。

パイオニアとしての功績は大きく、紀州鉄道が1974年に第1号のコンクリート建物、沼尻国際を建てた時点で、それまでの建物全体を共有する会員権ではなく、部屋単位でホテルを分割共有・登記する日本初のシステムを考案・実践したことで、その新規性は証明されています。本連載においては、これを共有制リゾート会員権の始祖と位置付けています。

鶴屋産業の傘下へ

和歌山県御坊市の鉄道、紀州鉄道は、1972年の11月末に株式の過半数を磐梯電鉄不動産(廃線後も鉄道の名称を使って別荘地分譲を行っていた)が取得し、磐梯電鉄不動産社長であった柏氏が紀州鉄道社長に就任します 3。そしてその磐梯電鉄不動産は1973年4月に「紀州鉄道不動産」と商号を変更し、磐梯から紀州への着せ替えが終了するのです。

この紀州鉄道(紀州鉄道不動産も含むグループ)は、企画立案・仕入販売・販売手法・システム構築の全てに秀でていた柏氏のリードによって、会員制リゾート業界大手の一角を担うようになっていくのですが、その過程では1974年に第一次石油危機があり、日本の経済環境は流動的なものでもありました。

この不況下において紀州鉄道では、元の磐梯系から三和銀行が支援していた関東系の「鶴屋産業 4」への資本変更が行われます。同社は1978年末ごろに、それまでの御坊市にあった本社を大阪市内に移転し、さらに東京都内に再移転します。1970年代は三和銀行が全国規模の都市銀行へと変わっていった時代であり、東京圏への進出の中で次々と同社に融資を進めたと考えられます。

こうして鶴屋産業の支配下に置かれてから柏氏は紀州鉄道を去ります。詳しい記録は残っていませんが、1980年代初頭までに自ら手掛けた別荘地の販売管理や、氏が考案した現代にまで連なる区分所有の共有+相互利用という「紀州鉄道コンポーネント・オーナーズ・システム」に関する引継ぎを終えて退社されたものと思います。

共有制リゾート会員権

柏氏の功績は、宿泊施設の部屋単位での区分所有権を分割して会員権として販売し、会員はそれを買うことで全国各地の施設を交換利用できるという、現代では当たり前に考えられているシステムを開発したことです。紀州鉄道の登場以降、リゾート会員権は預託金制から共有制が主流へと、流れが変わっていきます。

その交換先のバリエーションは海外にも及び、全盛期には31拠点を数え、およそ100施設、1,000室以上の規模となっていました。ここまで拡大したガラ権はその後も出てきておらず、史上最大の大風呂敷を広げたシステムを成功させた、まさにパイオニアでした。

フォロワーとして、前回登場した安達事業グループの「日本オーナーズクラブ」や、共有制ではありませんが、拠点数の多さではアクティブトレンドゴールド(パルアクティブ)5 がありますが、まったく規模が及びません。もちろん、宝塚エンタープライズ(リゾートトラスト)にも多大なる影響を与え、同社が預託金制から共有制をミックスさせていく過程には、紀州鉄道の成功がありました。

パルコール村の開発

柏氏率いる紀州鉄道が磐梯から北軽井沢に販売本拠を変えた背景は3つあります。

1つは磐梯電鉄に関係した人物たちが群馬県出身者だったこと。2つ目は原野商法の場としての北軽井沢の魅力。そして主たる顧客は東京住人であたため、軽井沢という圧倒的ネームバリューが生かせたこと。この3つです。

土地も建物も細分化し、別荘地名も複数に分け、「休暇村」「せせらぎの森」「鬼の泉水」「ロイヤルパーク」「リバーサイド」など、そしてこれらをまとめて「パル(友を)コール(呼ぶ)村」とした柏氏の手腕は見事でした。

一番良い場所と思えるロイヤルパークは元は別の業者のものでしたが、これを買い取り、この場所にガラ権施設を並べます。

建築費が安いという理由だったと思いますが、先にコテージ群(コテージといっても戸建てではなくコンクリート造で最低4部屋を配置)を大量に建設し、プールを備えた旧「軽井沢ホテル」(現在はクローズ)をオープンさせます。

鉄道ブランドを活かし、広大な広場にはJRの寝台列車(ブルートレイン)を並べて置きました。ここにははじめの頃は泊まることもでき、鉄道ファンには人気だったようですが、もちろん、実際の紀州鉄道の車両ではなかったのでした。

そして現在のセンターとなる列車村本館ができたのは、公式の資料がないのですが、過去のホテル予約サイトの情報からすると、1990年であるようです。

福利厚生にも

あまりにも多くの施設があり(特にコテージ群)で部屋数などの把握は難しいのですが、本館(列車村ホテル)にコテージ群全体を合わせると、総部屋数は550程度だったようです。これらを1室あたり15口程度で切り刻んでコンポーネント・オーナーズ・システムに乗せたということです。

別荘は欲しいが高いものは買えない、そして戸建て1戸は値段も高くメンテも大変という気運に乗って、飛ぶように売れたと思われます。そして現代でもそうであるように、同社のターゲットは「福利厚生」目的の企業にもありました。

一部をリロへ

紀州鉄道は鶴屋産業の支配下に移った後、コンポーネント・オーナーズ・システムを拡張する一方で、次回取り上げる嬬恋村との第三セクターによるゴルフ&スキーリゾートの開発・運営に至ります。

そしてその後、ご多聞に漏れず、バブル崩壊に見舞われます。区分所有型のコンポーネント・オーナーズ・システムからは手を引き、預託金型に移行しながら別システムの会員権を立ち上げて「紀鉄クラブ」と総称しながら販売を続けます。多数ある既存施設の運営で生き延びてきましたが、親会社の鶴屋産業もリゾートホテル事業から手を引くこととなります。

現在の親会社である中国系外国資本は、優良資産の切り売りを進めているように見えます。パルコール村一帯においては、最も優良な資産と思える旧列車村本館が「ポイントバケーション(リロバケーションクラブ)」6のブランドに変わっています。

リロは、旧列車村本館を一般ホテルと会員制の両方で活用し、ドギーホテルとして再生しました。その結果、ホテル前の寝台列車が並ぶ広大な芝生スペースは綺麗にメンテされ、寝台列車の塗装も完璧でした。

本シリーズの大トリを勤める紀州鉄道の物語。今回は1980年代までを語りました。経営の鶴屋産業が熱唱している最中であります。今回は紙幅が尽きましたので、それ以降の話は次回に持ち越しとします。

同社はバブル期を迎えて浅間山山麓から離れ、四阿山山麓・JR吾妻線の北に舞台を移します。彼らはそこで、乾坤一擲の巨大リゾートを建設することになります。筆者もコンポーネントのボリュームを上げ、大音響で続きをお届けします。

文・撮影:zukisansu、企画・考証・制作:resortboy。バックナンバーはこちら

1 comment

  1. 現在の紀州鉄道 軽井沢ホテル列車村本館、すなわち「ゆとりろガーデン北軽井沢 with DOGS」をご利用された方のブログを紹介します。

    すごく詳細なレポートで、現状がとてもよくわかります。「最高であった」という評価です。これは愛犬家の方は注目ではないでしょうか。

    ゆとりろガーデン北軽井沢 with DOGS宿泊記ブログ – HAY0930 30代夫婦の国内・海外旅行記

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